会場案内
会場図(PDF)
学会場の紹介
A棟玄関の建物の由来
2020年9月竣工。1906年(明治39)に改築した順天堂醫院旧本館を再現したものである。旧醫院本館は、患者の治療環境や衛生面の改善を目指す第3代堂主佐藤進により、最新の技術や設備が導入された、ルネサンス様式と日本建築の技術を融合した建物であった。1923年(大正12)9月1日の関東大震災で被災し全焼している。
10号館
2002年(平成14)竣工し、設計者は丹下健三である。
センチュリータワー(順天堂大学11号館)
建築家ノーマン・フォスターの日本での作品で、二層毎の構造で、中間階は吊り構造になっている。かつては文化アパートメント(1925年竣工、後に日本学生会館に改称)があった。これを所有していた旺文社の赤尾一夫が建築を計画し、1986年に解体した跡地にセンチュリータワーが建設された。当初は大林組、その後、野村総合研究所、加賀電子グループの本社となり、2009年に学校法人順天堂が当ビルを取得した。フォスターは王立英国建築家協会が贈るスターリング賞を2度にわたって受賞している。また1999年にはプリツカー賞を受賞している。この他、1990年にナイトに叙勲され、さらに1997年にはメリット勲章を受章、1999年には一代貴族に叙せられている。
日本医学教育歴史館:センチュリータワー17階
順天堂は創立175周年記念事業の一環として、2013年開催の日本医学会総会『医学教育史展』の内容を保存し、また、これをさらに充実したものとし、日本の医学教育の歴史を資料等により検証できる本邦初の「日本医学教育歴史館」を2014年4月に開館した。展示内容は、①江戸中期からの近代医学への接触時期、②江戸末期から明治初期(1860年~)の近代西洋医学の本格的導入時期、③明治中期(1880年~)の近代医学教育の普及とボトムアップ時期、④大正(1910年~)の社会的要請で増減した医学校の時期、⑤戦後(1945年~)の米英医学の移入時期である。
「濟生學舎(さいせいがくしゃ)」発祥の地
センチュリータワーの敷地は1876年(明治9)4月9日に、越後出身の順天堂で学んだ長谷川泰によって開校された「濟生學舎」の跡地でもある。明治初期に医者(西洋医)になるには、大学の医学部を卒業する他に“医術開業試験”を直接受験するという方法があった。濟生學舎はその試験を受験するための、いわば予備校的な医学校だった。多くの学生が隣接する順天堂で通学生となって臨床教育を受け、30年間でおよそ1万人の医師を送り出したと言われ、一説によるとこの時代の医師の半数を養成したとされる。濟生學舎に学んだ人には、野口英世も含まれている。現在の日本医科大学・東京女子医科大学・東京医科大学などは濟生學舎の流れをくむ。10号館とセンチュリータワーの間に石碑あり。